2010年6月24日の「ハヨピラ天空人報告会」です。

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5:56am の 8 月 11, 2014 にある 天宮清 のコメント

御志は充分に理解しています。スィーブン・グリア博士等の活動も承知しています。かつてはフランク・ドレイクの試み、そして米空軍さえもが彼らとの接触を模索しました。レイ・スタンフォードのグループも、海岸地帯で宇宙船を間近に目撃し、「身体磁場」「記録用円盤」の概念を日本にもたらしました。ジョージ・ハント・ウィリアムスンは「宇宙交信機」による「メッセージ受信」を「円盤は語る」と題した本に紹介しました。しかし、彼は1961年の有楽町における講演会において、「私が宇宙人からのものと思っていた通信は霊界からのものだった。日本人の諸君も注意するように」と冒頭で述べました。当時「文字盤」によって「私は火星の誰某です」という受信を信じて、その道に進む方もいました。我々CBAの後裔は、それらの過去を常に念頭に置いて、」現実の空」と相対する姿勢を維持していますが、空中の沈黙が続くと、皆さん精神世界へと旅たつようです。「これはダメだとか」「こっちをやれ」とか指図はできません。あくまで「経験」を表示するだけです。

 

 

10:14am の 8 月 10, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

1950年代から60年代にかけて、異星人とのコンタクトを真剣に実現しようとした研究団体が日本にあったことは、私たちGFLJにとって励ましであると共に驚きでもありました。

当時はアダムスキーのコンタクト体験が発表されたばかりの時期で、日本では興味本位に受け取られる傾向が強かったと思われます。そのような社会の風潮とマスコミのネガティブキャンペーンに加えて、政府とNASAによる宇宙の真相の隠ぺい工作は周到を極め、真相を公開しようとする研究者は激しい攻撃にさらされてきました。

1980年代に入ってから、ようやく人々はそれまでの「科学信仰」に疑問を抱き始め、スピリチャルな世界への関心が高まってきました。宇宙文明への関心の高まりはそのような精神文化の復活の動きと一体となって進行してきたと言えます。これまでの科学では説明のできない現象が私たちの日常には明らかに起きているのです。そのようなシンクロ現象を含めて、人間が本来スピリチャルな存在である真実に目覚めさせようと膨大なチャネリングメッセージが地球人類に伝えられるようになったのは、インターネットが普及し始めた2000年を過ぎてからでした。

私たちGFLJは、宇宙からのメッセージを読みあわせながら、ファーストコンタクトを実現するために、2010年にコンタクト活動を開始しました。チャネリングメッセージを通して、コンタクト活動の意義と宇宙文明の姿の輪郭を理解していなければ、私たちもただのオカルトマニア団体で終わっていたでしょう。

これからの活動を進める上で、先達の皆さんの参加を大歓迎します。ぜひ、皆さんの体験と知識を後輩の私たちにお伝えください。

では・・

9:16am の 8 月 10, 2014 にある 天宮清 のコメント

■CBAとは?  今日、インターネットの普及により、様々の分野の人々が自らの情報発信を行う時代となった。その中で「UFO」の分野は、「超常現象」を含む周知の分野として独立しており、無数の「投稿者」を抱える国民的関心事に位置づけられるだろう。  テレビでも、ベテラン演出者達が、各種バラエティー番組を通じて人民への「啓蒙」を行っている。我々日本人は、欧米諸国と比べ、10年から20年もの「遅れ」をとった「UFO後進国」と自認しつつも、玉石混合を使命とするかのような米国を始めとする「横文字情報」には「うんざり感」が漂う昨今である。  なぜなら、あまりにも荒唐無稽する現実離れしたそれらの「話題」の多くが、「恐怖」と現実離れした「夢」を誘うものだからである。もちろん、中には「事実」もあるが。  日本には1950年代、いくつかの有名な空飛ぶ円盤研究会が発足した。私は1990年代にそれらの創始者と直に接触し、彼らの能力と実績、彼らのUFO問題に対する見識について、多くの教訓と認識を得た。  私自身は1960年より、それら日本の空飛ぶ円盤研究の組織の一つ「宇宙友好協会=略称C.B.A.」の会員となって、機関誌『空飛ぶ円盤ニュース』を購読し、東京都内における同好者(主に大学生)の集まりに出席し、観測や翻訳・編集など学生らしい活動と協力参加を行ってきた。

 年月が流れ、私の世代を導いた初代の「先駆者達」が世間から退場(多くは死去により)し、かつて確固とした基盤をもつ全国組織も、解体を余儀なくされ、会員の多くは世間に埋没していった。  インターネット時代となった今日、我々の世代とやや離れた、無数の「UFO発信者たち」が台頭してきた。彼らは我々のようにUFOを目撃して自らが確認した知識よりも「引用」や「伝聞」を元に編集情報を組み立てることが巧みであり、その中に「宇宙友好協会・CBA」についての「情報」も含まれていた。  そこにおけるCBAの「評価」とは、部分的誇張に満ちており、かつての『毎日グラフ』や『地球ロマン』の記載のような一般常識的「紹介」の範囲を逸脱して、個人的主観による評価が多くなった。世の流れとしては当然のことだが、我々が「残党」ではなく、「後続者」として公然と名乗りを上げない以上、彼らの偏見的独壇場を許すことになる。

 またCBAの同志として共に活動した多くの仲間からも「ピラミッドを建設したまま行方不明」となった組織の実態は、批判材料として扱われて当然であり、「未来の地球を担う組織ISS(インターナショナル・スカイ・スカウト)」に参加した者にとっては「その指導者層の行方知れず」という「現実」は、未来を夢見て集合した若者達からの夢を奪った無責任な行為として指摘されても当然であろう。(実際にそのような指摘があった。)  従って、もし現在もなお「過去から継続している者」がいるとするならば、過去の組織が「未遂」で中断した「任務」をも背負うことになるのは必然である。  そして「これからの生き方」としては、「単に個人の趣味」としてやるか「地球上の公務」としてやるかということになり、個人的内密に「UFO探求」を継続してもよく、かつての先駆者に習い社会の表に立って公然と継続しても良いわけである。  誰がどちらを好み選ぶのも自由であり、無論、かかわりを持たない生き方を責めるものでもない。

 1984年3月8日午後、大阪に勤務する現金問屋を札幌から訪れたかつての総局長T氏は、いくつかの名言を残してくれた。その記録から抜粋してみる。  「CBAとは同じ目的をもった個人の集まりだ。最終的にはその個人がやるかやらないかの問題ではないか。」  「色々考えたが、考えているだけでは何も進まないので、昨年一大決心をして、4月に編集にかかり、6月に(機関誌を)発行した。全て自分でやった。大変だった。金もかかった。」

 貨幣経済社会において、先立つものを持たずして、室内で声を上げても、客観的な力とは成り得ない。CBAは、UFOという現象に遭遇した結果、人を動かし、企業を動かし、様々な社会との軋轢の中で、いくつかの先駆的仮説の構築と事業を成し遂げた。その部分部分において、参加者が「木を見て山を見ず」のように「部分」を論(あげつら)うのは個人の器量であり限界である。

 1961年に来日した米国の文化人類学者ジョージ・ハント・ウィリアムスン(1986年初頭カリフォルニアで死去。=1987年1月号『トワイライトゾーン』記載ルシアス・ファーリッシュからの書簡)によって、アイヌの伝承とUFOLOGYが連結し、1963年12月24日、CBAによる「オキクルミ計画」が発動。1964年にアイヌの文化神オキクルミの記念塔と太陽マーク花壇、空飛ぶ円盤モデルが完成。1965年には大壁画が完成、1966年には太陽のピラミッドが完成した。建設の歩みは速かったが、建設に参加した我々会員の「理解」は程遠いものがあった。

 私が「アイヌ聖典」の青焼きコピーを読み、自分なりに考え始めたのは1975年以後であった。  我々の生きている時間帯は、過去数千年の先駆者によって形成され、法律など細部にわたる完成した営みの中にある。何故、自分はここにいて、これを使って生活しているのか、という問いかけは愚問である。

 しかし、我々のように歴史の上を浮遊してきた者ではない、「先祖の時代」を持つ人々は、彼らの生活の知恵の発生を、過去の物語として所有している。  そこにおいて、「文化と律法を教示した高度な知性」の物語は、全世界自然民族が共有する遺産である。その一つとしてアイヌ文化が、そして伝承者による「オイナ」「ユカラ」が、今に生きる人々によって語り継がれている。  この叙事詩の中に、空飛ぶ乗り物シンタを認めた学者は数多いが、「いわば今日の飛行機」(1967年『現代のエスプリ-神話』110ページ)の理解に留まらず、「宇宙からの宇宙船だ」と指摘したのが、ウィリアムスンでありCBAであった。  その先駆者の志を受け継ぎ、学術的検証と現実の「遺跡とUFO」を探求して社会に公開するのが、我々の仕事であると認識している。  だから、これは「空想」でもなく「理想」でもなく、「現実」であって、この現実に対処する一つの道なのである。それは過去の地球から受け継がれた遺産(天空人伝承とUFOの歴史など)と、現在もなお目撃撮影されるUFO現象の間にあり、その世界に身をおけば「全ての営みが虚構ではないか」とみえるほどの衝撃をもって、「人類の悲願としての恒久平和への道、古代宇宙文化圏の復活」というテーマが押し寄せてくるのである。  しかし、この「遺産」を受け継ぐべき我々は、物質文明によって本能さえ消失しつつある悲惨な状態の中にあり、いかに便利な科学機器を駆使できても自然狩猟民族が持つ「人間らしさ」を、その便利さと引き換えに手放している感がある。さらに、「核兵器」の継続は惑星全体を生かすか殺すかの瀬戸際にもってきた。

9:15am の 8 月 10, 2014 にある 天宮清 のコメント

2010年6月24日「ハヨピラ天空人報告会」 のご報告

 平取町観光協会をはじめ、平取町と二風谷の皆様には、道中お世話になりました。私どもは無事各自の自宅に戻りまして、東京では会合にて報告会、私の住む天理では、このような報告文書の制作をしました。読んでいただけましたらと、ここに私の思いを綴らせていただきました。       天宮清

■6月23日  23日夜に入って雨音が激しくなった。9時頃床につくが眠れず、少しウトウトして目が覚めたので時計を見ると12時を過ぎていた。相変わらず雨音は激しく、とても止みそうにない感じであった。私は思案した。もし明日朝もこのまま雨なら、このホテルの部屋で舞台を拡げて撮影し、現地には雨に濡れても良い幕を張るだけにしようか、等と考えていた。雨の中を突撃して奉納品の埋納もできる、とも。「しかし、何か努力すべきだ」と自分に言い聞かせ、フトンの上で祈ることにした。突然、ジンギス汗が九拝したという話が頭に浮かんだ。私はフトンの上に座して九拝し、最後は伏したまましばらく祈った。と、突然気のせいか雨音が聞こえなくなった。それはそのまま続いたように思えた。  いつの間にか熟睡したらしく、目が覚めると窓の外は明るく、時計は4時を指していた。私は洗顔などを済ませて身支度を整えて出発準備をし、折り良く隣室の鎌田氏がトイレから戻ったので「準備に時間がかかるので、先に行っています」と言ってホテルを出た。雨は上がっていた。路面はかなり乾いていた。

 私はハヨピラまでの道を全力で歩いた。重量のあるスーツケースのゴロゴロという音が人影のない静まり返った町の中を進んでいく。  ゲイトからの坂は草が刈り取られてあったので、ズボンをぬらすことなく、広場に行けた。前日の下見では、「片隅でやらせていただく」という自分自身の申告にこだわり、オキクルミ像の前で行おうと考えていたが、やはり正面でやるべきだと思い直した。  使用する地面の大きな枯れ草を取り除いて平らにすることから作業は始まった。  シートを持ってくるのを忘れたので、まず折りたたみイスを出して、その上にスーツケースから出した物を置き、スーツケースの底にあった折りたたみ台2個を設置し、リュックから出した折りたたみ「祭壇」をその上に載せた。この長さ1.5メートルの板の上に、カセットテープの空き箱(Qから大量に提供されたもの)にアイヌ模様の紙を貼ったものを並べ、その中央の穴に国旗と顔写真の棒を差し込もうとしたが、棒を固定するために仕込んだ紙粘土が固まってしまったので、それを取り除くのが時間のかかる作業となった。四面に紙を貼ってあるので、あけ口のスキ間がなかなか簡単に見つからず、汗をかきつつ、また蚊の襲来を気にしながら、白く固まった粘土を取り出した。板の上にそれらを並べ、中央の穴に一本づつ国旗顔写真棒を差し込んでいった。やや斜めになったものもあったが、見た目にはそろった感じに見えるので、良しとした。

 その国旗顔写真棒の前に、この施設の成立に関係した人物と遺物の写真を並べた。これはすべて、家にあった材料で作ったものだ。  次にポータブルDVD再生器を載せる台を組み立てて、その上に再生器を設置し、三脚を2本立てて、一本を報告会用の説明図掲示板とした。三脚の1本をゆるめ、フリップがやや角度をもって安定するように調節。次にアンドロメダ星雲の写真を貼ったフリップ入れに最低限の枚数にした説明図を入れた。

 一通り舞台装置が整ったので、ゲートから入ってくる道を撮影しようと、ビデオカメラを手にゲートに行くと、向こうから鎌田夫妻がやってくるのが見えたので、彼らが入ってゆく様子を背後から撮影した。

 私の心の中では、「何かじゃまの入らないうちに、やろうとしていることを早めにきちんと済ませよう」という衝動があり、予定の順番にとらわれず、「まずやれる事」から順番に行っていった。  人数がそろったところで、最初に行ったのはゲート前に「ハヨピラ天空人報告会」の幕を張り、そしてアイヌ模様鉄骨門に「東京天空人報告会」に使用した二枚の幕を張って、それらを撮影した。

 次に、奉納品をどこに埋納するかである。前日の下見では、オキクルミ像下の大きな木の根元にしようと思ったが、やはり地面が硬かったので、階段を上がり像の後ろを見ると、掘れそうに見えた。まず軍手をした手で掘り、これなら行けると、鎌田氏が適当な木の道具を見つけて掘り始めた。私も石の破片でツルハシのように土に切れ目を入れた。三脚に固定したビデオカメラで様子を撮影した直後、穴が掘りあがった。そこに紫の風呂敷に包んだ奉納品を埋納し土をかぶせた。

 内訳は、天空人協会佐藤氏の論文集、シアトルの岡村氏の天空人賛歌、天宮作画・編集・鎌田さん印刷・ラミネート加工の「アイヌの文化神オキクルミ・カムイの物語」、レイニア山の石二個、の4点である。これらを1975年に京都で私が作成した木製の箱に収めた。  (25日早朝に天宮がその地面に異常のないことを確認した。またイナウの柵に下げた絵馬も異常のないことを確認した。)

 一通り手間のかかる予定作業を済ませたので、「ハヨピラ天空人報告会」を始めた。ビデオカメラを設置し、説明する姿が収まることを確認して、私によるハヨピラの説明が始まった。同時にポータブルDVDに「カライカラ・シンタ」を入れて再生、音楽と共にアーノルド事件からの空飛ぶ円盤史がはじまる。

 バスの車中で、鎌田氏にはこの場所についての説明などを行い、また彼は我々がハヨピラ建設に従事していた頃、日本全国をヒッチハイクで巡り、新聞にも取り上げられたとのことで、彼は未知の世界の探求や実戦活動には深い理解と経験がある。

 私が世界の文化英雄という分野に位置づけられるアイヌの神と、その神話の翻訳者金田一京助氏、そしてCBAによる建設を簡単に説明する中で、鎌田氏のそのような理解から発させられる感心の声も同時に録画されたので、まさに、受講者と講師という報告会の形になったことは、感謝すべきことであった。

 私のミニ講演が終わり、次に各自、私の鉛筆下絵をマジックでなぞる「儀式」となった。それを描きつつ、各自が描く姿に向けてビデオカメラでも撮影する。  出来上がった絵を石段に並べて撮影。

最後に用意したプリントを各位に渡し、「オキクルミ賛歌」の斉唱を行って、報告会は終了した。 以下が、金田一京助著『アイヌ聖典』から抜粋した「賛歌」である。

神伝 カムイ オイナ p89 アイヌ モシリ エサバネクル エネ クス アイヌ モシリ ピリカノ エヤム エキ ナンコン ナ

人間の国土 の長(おさ)たるべき人は 汝なれ ば、 人間の国土を よく 護(まも)り  居るべし。」

p93 エノネ カムイ ェバクノ カムイ リクン モシッ タ イサム ルヱネ

「汝の如き 神 汝ほどの 神は 天 国 に 無し。

大伝 ポロ オイナ アイヌラククル エネイノ カムイ エパクノ カムイ イサム ルヱネ ナ

アイヌラククル 汝のごとき 神 汝ほどの 神は あらざる なり。」

古伝 オイナ アイヌラククル エネワ アイヌモシリ エアニパテク エエプンキネ

アイヌラククルは 汝に て 人間の 国土は 汝 のみ 知り治むべきものなり。

 

9:32pm の 8 月 9, 2014 にある 天宮清 のコメント

ありがとうございます。2010年6月23日から24日未明にかけて、現地は豪雨でした。私は眠ることが出来ず、ジンギスカンをまねて、布団の上で九拝してから、しばらく伏して祈りました。突然雨の音が聞こえなくなり、目が覚めた4時、外が明るいので、すぐ支度をし、同行のご夫妻に「これからハヨピラに行って準備する」と告げてハヨピラに向かいました。私がゲート前に着くとご夫婦も到着したので、簡易祭壇を組み立てて、幕を張り、紙芝居のように独演的にハヨピラの意義を説明し、3人でアイヌ叙事詩一節を朗読。そして3人が3枚づつ古代宇宙来訪者の図形を描いて奉納。午前4時から6時までが晴天時間で、宿に戻ると再び雨となり終日雨の中を二風谷などを訪問しました。

9:02pm の 8 月 9, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

2010年6月24日ハヨピラ天空人報告会

昨年の6月28日、東京新宿で行った「第四回天空人報告会」終了後、天空人協会の佐藤修さんから「来年はどうしますか」と聞かれました。私は「来年はハヨピラに行きたい」と答えました。
 しかし、何事も言うは易く、実行には困難がつきものです。いくつかの細かい困難はありましたが、それらを少しづつ解決して、一年前の希望が現実に近づきつつあります。
 今日は、纏向と桜井の神社へ「神紋」の確認と撮影に行きました。その前後、ある道具を作りました。最初、娘のキャンバス立てを利用するつもりでしたが、長さの関係でリュックに収まらず諦めました。
 この道具が何故必要かというと、野外説明会というものを行う場合、ただ口で説明するのではなく、資料を提示しながら説明するのが良いと思い、紙芝居のように見せる道具がどうしても必要でした。絵を手に持ってやればよいのですが、ちょっと見苦しいものです。一枚や二枚ならそれで良いかも知れませんが。
 そこで、明け方、ふと三脚を利用することを思いつきました。つまりカメラを固定する小さなネジつきのプラスチック台と同じものを造って、それにフリップを立てる工夫をすれば良い、と思いついたのです。
 まず、家の中に、それに使える材料があるか、考えをめぐらせ、長い板状の木材の端を6センチほど切り落として、それをプラスチック台の代わりとして加工することにしました。道具箱にはもう彫刻刀もノミも捨ててしまってなく、唯一NTカッターが彫刻刀代わりとなりました。この作業が最も時間がかかり、手を切らないように緊張の作業で、なんとか三脚に収まる形が出来上がりまして、それに付属する木片や板、それらを接続する大小の木ネジを探し当て、何年も引き出しに残っていた水色のポスターカラーを塗って、その上から透明ビニールテープを貼り、出来上がりました。
 
 現地では、懐かしい同志が、例年の行事を行うようです。これは平取町から伺いました。我々はマムシに注意しながら、敷地の片隅か、時間をずらして、町からの注意事項を守って、参拝と報告会をやってきたいと思っています。
 「2010年6月24日 ハヨピラ天空人報告会」このタイトルは、天空人協会の佐藤修さんの命名によるものです。

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