1866年(慶応2年)に発見された手宮洞窟の岩絵を文字とする説もある。この彫刻は小樽市にある続縄文時代の遺跡であり、1921年(大正10年)には国の史跡に指定されている[注釈 9]。1878年(明治11年)に榎本武揚や開拓使大書記官の山内堤雲、考古学者のジョン・ミルンによる調査が行われて以降、広く知られるようになった。

この手宮の彫刻は古く「ジンダイモジ」[4](ジンダイ文字[5])、「アイヌ文字」[5]、「アイヌ古代文字」[6]、「奇形文字」[7]のように称されていたが、後述の中目の説が広まって以降は主に「古代文字」と呼ばれるようになった。吾郷清彦は「手宮古字」と称している。宮沢賢治の詩「雲とはんのき」(詩集『春と修羅』に掲載)の中には「手宮文字」として登場するほか、鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」や北原ミレイの「石狩挽歌」(小樽市出身のなかにし礼が作詞)、三波春夫の「おたる潮音頭」といったいわゆるご当地ソングにもそれぞれ「古代の文字」、「古代文字」、「手宮の文字」として歌われている。
手宮の「文字」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%95%B0%E4%BD%93%E6%96%87%E5%AD%97
その手宮洞窟の線刻画とは、下のようなものです(イギリスの地質学者ジョン・ミルンによる1880年の模写)。

6.「手宮文字」について
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2007/05/

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4:46pm の 8 月 12, 2016 にある 古谷 茂 のコメント

縄文、アイヌ、日本のシャーマニズム

北海道にある手宮洞窟(小樽)とフゴッペ洞窟(余市)に行ったことがある。今は保存館ができ、ガラスで おおわれた壁面を見学できる。あまり知られていないが、日本でこの2ヶ所にだけ、洞窟壁に線刻画が残され ている。今から1600年ほど昔の続縄文遺跡で、フゴッペのほうが大規模で動物などもいろいろ描かれている。 特 に面白いのは、角の生えた人の姿がたくさん描かれていることだ。 手宮洞窟壁面には、たくさんの角のある人物が描かれている。フゴッペには翼の生えた人もみら れる。これらの人物、実は当時のシャーマンだったと考えられている。どうやらこの洞窟は、神聖な儀式に 使った場所らしいのだ。

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4:39pm の 8 月 12, 2016 にある 古谷 茂 のコメント

2016/06/21 に公開

今回は小樽市手宮にあります縄文時代の
史跡である「手宮洞窟」に来てみました。

こちらはおよそ1600年前の縄文時代の史跡で、
かつては「手宮の古代文字」として知られて
いましたが、その後の研究で文字ではなく絵画
だったと判明したということで、1995年に現在の
手宮洞窟保存館として整備されております。

洞窟ということで中は真っ暗なんですが、各所に
設置された説明パネルのボタンを押していくと
解説のランプが点灯したり動画が再生されたりと、
結構「博物館らしい」体裁になっているかと思います。

ちなみに中は結構暗いので、外に出た時明るさの
ギャップでクラクラする場合もありますので、
ご来場の際はご注意頂ければと思います

4:29pm の 8 月 12, 2016 にある 古谷 茂 のコメント

これは文字ではない ― 「手宮の古代文字」

手宮洞窟は,北海道小樽市手宮にある海蝕洞窟に残された洞窟遺跡である。1866(慶応 2)年,石工の長兵衛という人が,偶然発見したと伝えられる。この洞窟内部の壁面に陰刻による彫刻があり,一躍人々の注目するところとなった。

発見以来,多くの学者がこの地を訪れ壁面の彫刻を模写しいろいろな学説を発表している。最初に学会に発表したのは英国人ジョン・ミルンであった。以後,開拓使をはじめ,数多くの学者が研究を重ね,中にはこの彫刻を「文字」として解読した研究者も出現した。

その後一時期,手宮洞窟内彫刻偽作説が流れたが,1980 年に隣町,余市町で同種の彫刻を壁面にもつフゴッペ洞窟が発見されてからは,その学術的価値が再確認され,一層注目されることになった。フゴッペ洞窟の壁 面彫刻と比べると,人物などの具象的な彫刻は少ないが,その類似性からみて続縄文文化期(約 1500 年前)の遺跡とされる。

7:45am の 8 月 8, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

天宮清" さんの発言 (8 月 8, 2014 7:31am) を転載します。どうもありがとうございます。   

オキクルミカムイに関する文献(天宮清の蔵書から)

適切なご質問に感謝しつつ・・・ 大正12年1月発行 世界文庫刊行会 訳者金田一京助『アイヌ聖典』 昭和18年9月発行 八洲書房 著者金田一京助 『アイヌの神典-アイヌラックルの伝説』 昭和17年6月発行 青磁社 著者金田一京助 『アイヌ叙事詩 ユーカラ概説』 昭和36年5月発行 三省堂 筆録者金成まつ 訳注者金田一京助 『アイヌ叙事詩 ユーカラ集Ⅱ』 1991年1月発行 平文社 著者立石久雄 『アイヌの神謡-昔話とユーカラへの道』 昭和42年2月発行 至文堂 編者大林太良 現代のエスプリ 神話 1981年12月発行 三省堂 著者安藤美紀夫 古典のおくりもの『アイヌラックル物語』 昭和56年9月発行 みやま書房 アイヌ関係著作集 更科源蔵『アイヌの神話』

7:41am の 8 月 8, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

アイヌ文化入門

北海道では、あちこちで大昔の人たちが使った石器が発見されており、数万年前から人が住んでいたことがわかっています。

 やがて本州と同じように縄文文化期を迎え、狩猟・漁労・採集の生活が行われました。その後、本州などでは稲作を中心とする弥生文化が成立しましたが、北海道では稲作が行われず、縄文文化を引き継いだ続縄文文化と呼ばれる時代を迎えています。

 その後、北海道の広い範囲で、本州文化の影響を比較的強く受けた擦文文化と呼ばれる文化が広がりました。オホーツク海沿岸では、北方の文化の影響を強く受けたといわれるオホーツク文化と呼ばれる文化が成立しました。

 現在のところ、伝統的なアイヌ文化と見なされる生活様式が成立していくのは、おおよそ13~14世紀頃だと考えられています。

 

7:37am の 8 月 8, 2014 にある 古谷 茂 のコメント
7:35am の 8 月 8, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

金田一京助の事件簿 | アイヌ学を志したきっかけ

金田一が東大にいたころ、言語学科には”英雄たち”がいた。金田一の一年先輩に、日本の国語学を躍進させた橋本進吉がいたし、また琉球語を主題にし、のちに“沖縄学の父”といわれるようになった沖縄出身の伊波普猷もいた。さらには、朝鮮語の最初の科学的研究者になる小倉進平もいた。

助教授の藤岡勝二が蒙古語・満洲語の専門家で、また一年あとで入ってくる後藤朝太郎が、中国語学をやることになる。

しかし、アイヌ語研究をやる者だけがいなかった。言語学科の主任教授の上田万年(かずとし)博士は腹をすえかねたのか、講義のとき、

-アイヌは日本にしか住んでいない。アイヌ語研究は、世界に対する、日本の学者の責任ではないか。

という旨のこといった。金田一はこのとき自分の生涯の道を決めた。

6:15pm の 8 月 7, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

旅日記~札幌から遠くへ~

このあたりが北海道縄文文化の中心かもしれませんね。

5:55pm の 8 月 7, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

手宮の洞窟壁画は世界でも特有のペテログリフですね。

Petroglyph

描いた人々の芸術的なセンスはずば抜けています。

4:50pm の 8 月 7, 2014 にある 獅子 ark 666 のコメント

手宮洞窟保存館 縄文壁画、とっても綺麗ですね!

これって、金で描かれているのでしょうか?もし金で描かれていたならば、洞窟内は光輝いて、それは見事だったでしょうね

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