籠神社の鳥居と神門
http://www.bell.jp/pancho/travel/tango/sec-6.htm
籠神社について
http://www.motoise.jp/about/
籠神社は第四代懿徳(いとく)天皇の御代(紀元前507年)に始まった「藤祭」を第二十九代欽明(きんめい)天皇(539~571年)の御代に「葵祭」と改称し、2500年以上その祭祀を継承しています。

【別称】 籠宮大社(このみやたいしゃ)・元伊勢大神宮・伊勢根本丹後一宮・一の宮大神宮
【旧社格】 延喜式内・名神大社・月次・新嘗・案上之官幣大社・山陰道一之大社

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コメント

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9:34pm の 8 月 3, 2014 にある 獅子 ark 666 のコメント
私も新たな発見が多々あり、意味深い探索となりました。
黒又山の階段状のピラミッドを見た時に、マヤのピラミッドに似ていると思いました。
五色山古墳の「五色」とは、いつつの肌の色を持つ世界の民、または五色の龍のイメージが出てきて、世界の中心的な場だったように感じました。
5:23pm の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

ありがとうございます。

今日、調べてみて気づいたことは、関西では元伊勢ー明石ー淡路島を結ぶ子午線のラインが重要な意味を持っていることです。これは、関東で中央構造線のライン上に重要な遺跡が並んでいることと同様に、神社や古墳を建設したメンバーが高度な科学知識を備えていたことを証明しています。黒又山が人工的な階段式ピラミッドとして建設されたように、日本各地には数多くのピラミッドが存在することも明らかになってきました。縄文宇宙文明の真相が次第に理解されつつあると感じています。

では・・

3:44pm の 8 月 3, 2014 にある 獅子 ark 666 のコメント
いろいろと出てきてますね!私も気になるキーワードがどんどん出てきて整理しきれなくなってきそうです(笑)
まず、丹後の「丹」は丹=朱であり、水銀→不老不死→十種神宝と繋がっていきます。
不老不死の願いから子孫繁栄へと想いは託され、生殖器をご神体として祀るなどして縄文人は和合の精神を大切してきたのではないでしょうか?
それから、鉄、鍛冶、金山神というキーワードも出てきています。
舞鶴と名古屋の鶴舞は対の関係であり、鶴は日本の象徴として扱われていたのではないかと思います。日本航空も鶴のマークで空を飛んでますしね(^-^)
海部家(マナの壷)と尾張家(草薙剣)も対の関係であり、神器をどちらも祀っていたというところに何か秘密が隠されていそうです。
さらに、アラハバキの「荒」は、一霊四魂の荒魂という意味合いもあるように感じます。荒魂なる神々を裏に隠しておかなければ、民が自由に自分のしたいように想いを現実化してしまったら(アロンの杖であり、魔法)、支配、統率しにくくなりますからね。。。
マナの壷も、不老不死にまつわる呪術的なことに使われていたのかもしれませんね。
真名井神社には「かぐや姫」を感じます。つまり月の神のエネルギーであり、瀬織津姫をお祀りしているのでしょう。こちらの宮で初めてピンクの光ご写メすると写り込むようになりました。
最後に、まつろわぬ神といわれてきた星の神、天津甕星(あまつみかぼし)が気になります。明けの明星、宵の明星、金星、北極星とも言われる謎の多い神です。この神は物部家の中で最後まで抵抗したのですが、討ち死にせずに、晩年は河内?あたりで過ごしていたという説もあるようです。、
9:56am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

東経135度子午線をとおるまち

日本標準時の基準となる東経135度子午線は、明石市を含む12市を通っています。

北から京丹後市、福知山市(以上京都府)、豊岡市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、神戸市西区、明石市、淡路市(以上兵庫県)、和歌山市(和歌山県)です。

それぞれの町には、目には見えない子午線を表示する標識やモニュメントが建っています。         明石市は、明治43年に日本で最初に標識を建てたことから「子午線のまち」といわれています。       

9:43am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

やはり、五色塚古墳は大きなカギを握っているようですね。

135度に光の柱を立てました
135度子午線から変る日本と世界いろいろなエネルギーを融合しながら、日本列島はまるで身体と同じ、場所場所に針を打つのが「祈り」であり、ツボに効いていきます。 出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が解いていた「三千世界一度に花咲く梅の花」ミロクの世が実現しようとしております。

昭和3年3月3日に出口王仁三郎氏が儀式をしてミロク大神を出す。 ちょうど60年後の3月3日に インドのOSHO が天川神社が新しくなった折にマイトレーヤの署名で日本人にメッセージを送りました。このエネルギーが次のミロクの世を作って行きます。神出は135度の主要な地となります。 

シャンタンさん(ゆるゆる瞑想)がリーダーとなり平成25年4月19日に全国から17名のライトワーカーがこの135度の主要な地に結集、光の柱を立てました。  この主要な地とは:

五色塚古墳 : 〒655-0035 神戸市垂水区五色山4丁目 五色墳管理事務所 電話078-707-3131

明石市天文科学館 : 〒677-0877 明石市人丸町2-6 電話078-919-5000

八木遺跡公園 : 〒674-0063 明石市大久保町八木80番1

神出神社 : 〒651-2311 神戸市西区神出町東1180

金棒池 : 〒651-2311 神戸市西区神出町東1188
8:57am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

愛宕塚古墳(あたごづかこふん)

五色塚(ごしきづか)古墳

五色塚古墳(ごしきづかこふん)は、兵庫県神戸市垂水区にある、兵庫県下最大の前方後円墳。別名「千壺(せんつぼ)古墳」。築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。国の史跡に指定されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E...

8:39am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

兵庫県立考古博物館
兵庫県立考古博物館(ひょうごけんりつこうこはくぶつかん)は、兵庫県播磨町にある考古博物館。遺跡数日本全国1位である兵庫県の考古学の拠点として2007年10月13日に開設された。博物館には発掘調査を担当する埋蔵文化財調査部が設けられており、国・県等が実施する遺跡の発掘調査・研究と研究成果の展示、およびその活用法・展示手法や情報発信手法の調査研究と資料・情報・ナレッジなど資源の集積、その活動を支える人材「考古楽者」の育成まで行なう。

国の史跡に指定されている大中遺跡の隣接地にあり、この史跡を整備して大中遺跡公園(愛称は「播磨大中古代の村」)として公開・管理する役割を担うとともに、従来の展示物を見てもらうという展示物主体の博物館ではなく、来館者に参加し体験してもらう参加体験型博物館として設置運営されており、常時体験学習を実施している。地階では様々な遺物が収蔵された収蔵庫を見ることのできるスペースや、遺物の整理作業や金属処理といった普段目にすることのできない作業を見ることもできる。エントランスロビーには神戸風月堂のカフェもあり、館外の史跡公園とともに一息つける場所となっている。

8:22am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

この土蜘蛛に似た伝説は伊豆にも残されています。

<大室山の大蛇穴>

鎌倉幕府二代目将軍「源頼家」の時代のことです。

「大室山」の麓(今は「さくらの里」)にある大きな穴に大蛇が住んでいて、村人たちを苦しめていました。

村人は困って、「源頼家」が近くに来た時に、大蛇の退治をお願いしました。

「源頼家」は、家来の中でもっとも腕の立つ「和田平太」に大蛇退治を命じます。

案内人は怖がって、とても「和田平太」を案内することはできません。 後に引けない「和田平太」は、意を決して一人で洞窟の中にはいっていきます。

真っ暗の中で、光り輝く大蛇の目が見えます。 

「和田平太」は、火打石を取り出して火をつけます。 

大蛇は「和田平太」に襲いかかりますが、剣の達人「和田平太」は見事に大蛇を切り殺しました。

それからは、村人は幸せに暮らすことができるようになったのです。 良かったですね~。

この大蛇が住んでいた穴を「大蛇穴」と呼ぶようになりました。

このお話は、鎌倉時代の公式の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」にしっかりと書かれています。

本当に大蛇はいたのかもしれません・・・・。

http://flatheat177.ning.com/photo/5712408:Photo:136120

8:09am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

丹後国風土記残欠

「丹後国風土記残欠」は、来歴のよく分からない文書で、五風土記や逸文などのように学界から古風土記と認められているものではないが、古代の土蜘蛛について詳細に記しているので取り上げた。ここに登場する土蜘蛛「陸耳御笠」自体は、古事記に丹波で官軍に討たれた人物「玖賀耳之御笠(読みは同じ)」として現れる。討つ側の人物も同じ。ただし、土蜘蛛とは書かれていない。また、丹後国一宮・籠(この)神社に伝わる国宝の家系図「勘注系図(かんちゅうけいず)」にも、土蜘蛛である陸耳御笠がやはり同じ人物に討たれたと書かれている。「勘注系図」自体に関しても問題を指摘する向きはあるものの、古事記と合わせて見れば、陸耳御笠という大和王権に反逆的な人物が丹後にいたことはまず間違いなく、丹後国風土記残欠の土蜘蛛に関する記述は全く荒唐無稽なものとも思われない。なお、丹後国風土記については、正式に古風土記の逸文と認められている文書が、別に存在する。そちらには土蜘蛛の話はない。丹後国風土記残欠の土蜘蛛に関する記述は以下の通り。
 古老が言うには、崇神天皇の治世、この国の青葉山の山中に「陸耳御笠」という土蜘(つちぐも)がいて、人民を損なっていた。よって日子坐王(ヒコイマスノミコ。崇神天皇の兄弟)が天皇の命により征伐に来た。丹後国と若狭国の境に至った時、忽然と鳴動して光り輝く岩があった。形が金甲(かぶと)に似ていたので、これを将軍の甲岩と名付けた。またその地を鳴生(なりふ、比定地は舞鶴市成生(なりう))と名付けた。以上は志楽の郷の記事。
 昔、日子坐王が天皇の命で土蜘を追撃した時、持っていた裸の剣が潮水に触れて鉄錆を生じた。そこへ、鳰鳥(にほとり、カイツブリのこと)が並んで飛来し、その剣に貫き通されて死んだ。そのために鉄錆が消えて元に戻った。だからこの地を爾保という。以上は大内の郷の記事。
 昔、日子坐王が官軍をもって陸耳御笠を討伐する時、青葉山から追い落として、この地に至った。稲など穀物の中に潜み隠れた。日子坐王が急いで馬を進め、その稲など穀物の中に入り、殺そうとしたとき、陸耳はたちまち雲を起こして空中を南に向かって飛び去った。日子坐王は稲など穀物をひどく荒蕪(したき。現代語でも「踏みしだく」などと使う「したく」という動詞の連用形。荒らす、乱すなどの意)なした。だからその地を名付けて荒蕪という。志託は本来、荒蕪と表記する。以上は志託の郷の記事。
 昔、日子坐王が土蜘の陸耳・匹女らを追って、蟻道の郷の血原に至った。まず、土蜘の匹女を殺した。だからその地を血原という。その時、陸耳は降伏しようとしたが、日本得玉命(ヤマトエタマノミコト。「勘注系図」に現れる、籠神社宮司家・海部(あまべ)氏の祖先であり、祖神から数えて八代目。風土記残欠の別の箇所には、「日本得魂命」という表記で丹波国造とも書かれている)が川の下流から追って迫ろうとしており、陸耳はたちまち川を越えて逃げた。そこで官軍は楯を連ねて川を守り、イナゴが飛ぶかのように矢を放った。陸耳の郎党の中には矢に当たり死ぬ者が多く、死体は流れ去っていった。だからその地を川守という。また、官軍の駐屯地を名付けて、今は川守楯原(たてはら、比定地は福知山市大江町蓼原(たでわら))という。その時、舟が一艘(この間、欠字で内容不明)その川を下った。それによって土蜘を駆逐し、とうとう由良の港に至った。しかし土蜘の行方は分からなかった。そこで日子坐王は陸地でつぶてを拾い、占った。それで、与佐の大山に陸耳が登った事を知った。だからその地を石占(いしうら、比定地は京都府宮津市東部の石浦(いしうら))という。またその舟を楯原に祀って舟戸神と名付けた。以上は川守郷の記事。
 丹後国風土記残欠記載の土蜘蛛の記事は以上である。見ての通り、大内の郷、爾保の地名由来の記事に関しては、単に「土蜘」と書かれているのみで、陸耳御笠や匹女に関するものかどうかは、厳密には不明である。しかしながら、全ての陸耳御笠に関する記事を抜き出すと、青葉山から西へ西へと転戦していて、爾保崎もそのルート上に当たる事、さらに爾保崎の記事中で「逐」と追撃を意味する漢字が使われている事などから、この記事も陸耳御笠かその一族との戦いを描いたものである可能性が非常に高いので、一緒に扱った。なお、ここでは記事を文書の前から順に列挙したが、これはそのまま物語の時系列にも適っているようだ。
 さて、この丹後国風土記残欠の陸耳御笠の物語だが、古事記・日本書紀や古風土記の土蜘蛛の話と似ているところも多い。まずは、「人民を害する」などの理由で、大和王権に討たれる事。天皇または皇族が討伐に赴くという記事もよく見られる。崇神天皇の治世という時代も記紀・古風土記と同時期である。山を根拠地とする土蜘蛛の記述も古風土記に幾つかある。首長の固有の人名が出ている事や、女性シャーマンと思われる首長が現れる事も共通している。その女性首長・匹女が討たれた場所は「血原」という地名になったとあるが、土蜘蛛が討たれた場所に「血」にまつわる地名が付くのは、豊後国風土記の「血田」と共通している(詳細はこちら)。また、「風土記」という形式である以上当然であると言えば当然だが、地名由来譚として書かれていることも古風土記に共通する。上述したように、古事記にも陸耳御笠の名自体が出ている事を考え合わせれば、丹後国風土記残欠の来歴が少々怪しくとも、この地に古くから土蜘蛛・陸耳御笠の話が伝わっていた事は確かで、また話の大筋も古代からそれほど変わっていないのではないかと思われる。

8:06am の 8 月 3, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

若狭湾青戸大橋付近からの青葉山

10月末に高野さんから久しぶりにメールをもらったのですが、実はその直前に、朝方あるピラミッド山からの遠望の”鮮明なイメージ”を夢で見ました。そのときの記憶を描いたものが上のイラストです。
「日本海」という明確なイメージと若狭・丹後辺りのピラミッド山上という意識があり、イラストのようにそのピラミッド山から北西方向に遠方から順に、「オショロのような環状列石」、「一隅が欠損した方位石の様な巨石のストーンサークル」、手前に「巨石の洞窟でできた陰石とメンヒル状の陽石の組み合わせ」が、ひとつのライン上にきれいに並び、そのピラミッド山に続いていました。
夢の中のイメージなので、三つの巨石群は日本海を望む俯瞰地図上に浮いているように大きく出現しました。 同時に、「安寿と厨子王」、「古代朝鮮半島」などのキーワードが強くイメージされて、久々に強烈な印象に残るものでした。
そんなおりその直後に、高野さんから若狭富士;青葉山探訪計画を聞かされて、その”夢見”のピラミッド山が”青葉山”であるのではないかと思ったのでした。青葉山が若狭随一の霊峰であることは以前から知っておりました。
私としては、北西方向へ強く意識が向きましたので、青葉山から磐座のある真名井神社(籠神社奥宮)を通り、赤坂今井古墳を抜け、網野町を経由して朝鮮半島北部へとつながるラインかと考えましたが、高野さんの言うように、青葉山からほぼ真西に、(安寿と厨子王が関係する)由良ケ岳、ストーンサークルが山頂にある磯砂山(イサナゴヤマ;天女伝説あり)のラインが濃厚なのではないかと思います。
ピラミッド山としての青葉山の麓か近隣に、”陰陽石”らしきものがあると思うのですが---
”夢見の陰陽石”はかなり巨大で、特に陰石は巨石というよりか、「沖縄のセーファーウタキ」のように両サイドの岩盤によって洞窟が形成され、そこの手前にかなり大きな陽石が塞ぐようにあるというものでした。
上のイラストのような陰陽石をどなたかご存知ならば教えてください。 また、日本海近くにやや小ぶりの環状列石のような遺跡があればご連絡ください。これは古墳最上部の列石かもしれません。(岡山県の盾築古墳のような列石のような---)
いずれにしても古代、日本の日本海側と朝鮮半島とが密接な関係を持っていたことが---とても印象に残ったのでした。
高野さんたびたびの貴重な探訪記録をありがとうございました。いずれあらためて若狭・丹後の現地探訪を一緒にしましょう。
…泰山

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