公式ホームページ 特別史跡「三内丸山遺跡」
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

レーティング:
  • 現在は 5 段階評価の 0 つ星です。

表示: 171

コメント

コメントを追加するには、銀河連邦フォーラム のメンバーである必要があります。

銀河連邦フォーラム に参加する

2:45pm の 8 月 7, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

花巻市東和町の「丹内山神社」には「アラハバキ大神の巨石」という大岩があります。坂­上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く領域の中心的祈願所­でした。
高橋克彦氏の「火怨」では東和が物部氏の拠点という設定になっています。物部氏は蝦夷­に資金的援助を行い、東和において蝦夷のリーダー阿弖流為(アテルイ)らは鍛錬を重ね­ます。阿弖流為はアラハバキ大神の巨石の前で不思議な体験をします。
http://www.muragon.net/blog1/2011/11/...
5:46am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

東北の真実

本題に入ろう。この日本列島において出色抜群の縄文都市国家について、伝承し、記録している文献があった。青森県五所川原市の和田家(当主、喜八郎氏、飯詰在)所蔵の文書群がこれである。「東日流(つがる)外三郡誌」を中心とし、「北斗抄」「丑寅風土記」等、各種。総称して和田家文書と呼ぶ。当文書(「津保化(つぼけ)族之事」)にいわく、

「彼の故土に於て、幾百万なる津保化族栄ひ(「へ」か、古田)、雲を抜ける如き石神殿を造りき(「し」か、同)あり。」

「東日流外三郡誌」によれば、東北地方の最初の先住民は阿曽辺(あそべ)族であり、第二の「侵領」民が津保化族であった、という。その津保化族の中心拠点の筆頭にあげられているもの、それが「山内(=三内)」の地であった。

「古き世に外濱なる大濱山内の郷ありて津保化族の集落あり。山海の幸に安住たり。」(「北斗抄」十三、未公刊)

 以下、上磯(かみいそ)・十三湊(とさ じゅうさん みなと)・神威丘(かむいおか)・糠部(ぬかべ)・是川(これかわ)などの地名があげられている。  この津保化族の構築したところ、それが右の「石神殿」であった、という。当文書中、「石神」という言葉は頻出する。したがってこれは「石の神殿」ではなく、「石神の殿(高殿)」を意味している、という可能性が高い。事実、三内丸山遺跡からはすでに幾多の「石神」(岩偶)が出土しているのである(青森県文化財埋蔵センター)。  さらに、この津保化族は「靺鞨(まっかつ)・珍愚志(ツングース)族」の一派とされているが、その靺鞨の本拠地の一たる黒竜江・ハンカ湖の地域とは、縄文後期を中心とする一大交流の事実が裏付けられている。津軽海峡圏に分布する黒曜石の鏃(やじり)が、ウラジオストック周辺の領域から出土し、右の事実を指示しているのである(『古代通史』原書房、七八頁)。

 これらの事実は、いわば「最近の認識」であり、逆にこの認識をもとにして、右の「石神殿」の一文が書かれた、などということはありえない。なぜなら『東日流外三郡誌」(北方新社版、第一巻、右は九九頁)の出版された時点(昭和五八年)の方がずっと先だからである。  以上、わたしがすでに講演や論文でくりかえしのべたところ、それをここに再述したのは他でもない。次の問題点に対し、注意を喚起せんがためである。  それは、昨年の夏以来、くりかえし当三内丸山遺跡に関する報道がなされたにもかかわらず、和田家文書との関連にふれた「情報」が、各新聞・雑誌とも「皆無」であった。 ーーこの事実だ。

5:42am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

東北の真実

和田家文書概観

昨年(一九九四)の夏、突然のように報ぜられた三内丸山遺跡(青森県青森市)、それはすでに早くから注目されていた。おびただしい縄文土器の出現によってである。  わたし自身も、一〇年近く前から青森「市民古代史の会」の鎌田武志さんのお宅に泊めていただいたとき、しばしばその遺跡の話を聞いた。考古学好きのお子さんからの直接情報だった。お宅の、すぐ裏手にその遺跡は当っていた。一回は、その現地にお連れいただいたこともあった。  しかし、何といっても、それが日本中に周知されるようになったのは、例の二〇メートルを越える高層木造建築物の発見だった。その上、五〇〇人にも及ぶ集団の住居跡が、造成された土地や企画された下水溝、中心部から位置が次々と拡大する倉庫群などと共に発掘されてきたのである。縄文都市だ。かつて阿久遺跡(長野県原村)が発見されたとき、わたしがはじめて“緊張感をもって”使用したこの言葉、それがここでは、いわば“ありふれた”事実そのものの姿で現われたのであった。  それだけにはとどまらない。わたしが阿久遺跡のさいは、まだ口には出さず、心の中にしまっていた言葉があった。 ーー縄文国家だ。  阿久遺跡もそうだったけれど、「都市」は一点だけでは成立しえない。背景が不可欠だ。都市という「点」をささえる「面」が必要なのだ。その「面」の拡がりが、すなわち国家なのである。  阿久遺跡の場合、何万個という石が並べられ、巨大なドーナツ状の「祭祀場」が形造られていた。中央の、同じくドーナツ状の空白部(置き石のない場所)で、司祭者たちによって祭儀が施行される。それを周辺の(巨大なドーナツ状の置き石部分の外の)広場に集った群衆が見守る。壮大な一大祭典の場だったのである。  ときは、縄文前期後半。諸磯(もろいそ)式土器の時代だ。すなわち、諏訪盆地を中心に、松本・伊那・甲斐方面へ、この土器の分布する地帯の人々にとっての、聖なる祭儀の場だったのである。 ーー縄文国家の中の中枢地としての、縄文都市だ。  以上のイメージがわたしの中にはあった。しかし「国家」という言葉に対する“拒否反応”、それを恐れて、まだ口の外に出さなかったのである。よく言えば、慎重。ズバリ言えば、臆病だったのだ。  だが、今回、三内丸山で、事の真相を確認した。二五メートルもの高層建築物が海ぎわに立っている。もちろん、現在は「海ぎわ」ではない。だが、当時、水位は、現在より六メートル高かった(青森市教委の報告による)。だから、その原状において、この高層建築物は、海ぎわにそそり立っていたのである。海と陸の接点だ。  海は広大である。青森湾は津軽海峡につながり、海峡は西の日本海と東の太平洋の接点だ。  その広大な海に対する、陸。それが一点のはずはない。三内丸山という一点だけで、海に相対しているのではないのである。当然、「面」だ。  青森県から岩手県、秋田県へとひろがる「面」、その陸地と海との接点、そこに二五メートルの高層建築物は立つ。右の「面」を代表して立っているのである。すなわち、この建築物は、一縄文都市のためではなく、背後の縄文国家、それを前提とせずには、十分な理解はえられないのだ。  この点、時代が下るにつれ、位置の拡大する収蔵倉庫の存在も、内側の都市住民というエリート層と、外に位置する、広汎な周辺住民との経済的接点として観察するとき、その客観的な姿が理解できるのではあるまいか。

5:37am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

三内丸山遺跡に直線の溝 大規模な人工道か 「国内初事例の可能性」

2014.8.1 11:59
国特別史跡の三内丸山遺跡(青森市)で、約5千年前の縄文時代前期末ごろのものとみられる大規模な直線状の溝が見つかったことが1日、青森県文化財保護課への取材で分かった。同課は「大規模な人工の道の跡である可能性がある。確認できれば、この時代では国内初の事例ではないか」としている。

 同課によると、溝は遺跡西部で見つかった。幅約4メートルで南西から北東方向に延びており、これまでに長さ約20メートルが確認された。周囲から最大約1メートルの深さまで掘り下げられ、大規模な工事だった可能性がある。溝から見つかった土器などから、時代を推定した。

 同課は9月末までの調査で、溝の規模や形状などを明らかにするとともに、これまで同遺跡で見つかっている道の跡との関連も調べたいとしている。

© 2020   Created by 古谷 茂.   提供:

バッジ  |  問題の報告  |  サービス規約