アラハバキ神社
http://bqspot.web.fc2.com/arahabaki.htm
東北地方を代表する神としてアラハバキ神なる信仰があります。 
 ”荒脛巾”、”荒覇吐”などと書かれることが多いですが、実際のところ、どういう神様なのかと、”謎の神”というのがもっとも妥当なのでしょう。
 
 大和朝廷に追われる以前の東北の民による独自信仰が残っている神、あるいは道祖神的な足腰の神、職人を主とした製鉄の神など様々な説があります。
 
 しかし、何よりこの「アラハバキ」なる神を難しくしているのは『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の存在であったりします。
 1970年代に、青森県の和田喜八郎により、発見発表された、この文書は青森県を中心とした東北地方の知られざる歴史を記したものであり、それは当時の学界に大きな衝撃を与えるものでした。
 後にその内容は全くのでたらめで和田喜八郎の偽作であるということがハッキリとしました。しかし、未だにその衝撃は大きく東北地方に残っており、その説が正しいものとして紹介されていたり、本来は地域の神としてヒッソリとしているはずが大きな神として扱われたり。
 
 そんな微妙な立場にあるアラハバキ神の代表的な2か所を紹介してみようと思います。
 
 まずは宮城県岩出山町にあるアラハバキ社

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コメント

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2:51pm の 8 月 20, 2014 にある 獅子 ark 666 のコメント

やはり、縄文、レムリアのエネルギーが今、活発に動き出しているので、こういった方向へと導かれていくのでしょうね

2:29pm の 8 月 20, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

 A 仙台市縄文の森広場

 B 仙台市富沢遺跡保存館

 C 東松島市観光協会

 D 東松島市観光案内所

 E  仙台市役所 教育局・教育委員会事務局文化財課仙台城史跡調査室

 F  東北歴史博物館

 G 三神峯公園

 

2:18pm の 8 月 20, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

七ツ森

七ツ森(ななつもり)は、宮城県黒川郡大和町にある、7つの山の総称である。最高峰は笹倉山(大森)で、標高は507m。南川ダム北東に6つの山があり、笹倉山のみが同ダムの方4kmほどに離れて座する。

奥羽山脈方に延びる台地松島丘陵(黒川丘陵)上にあり、周囲の仙台平野各地から見ることが出来る。奥羽山脈上の船形山から東方に泉ヶ岳、七ツ森と続く峰々は、仙台市都心部方20km辺りに概ね東西に並んだ姿として市内の高層ビル仙台城本丸などから遠望され、仙台都市圏の北辺の概ねの目安となっている。

朝比奈三郎伝説[編集]

七ツ森の生い立ちを語る朝比奈三郎についての民話が伝わっている。 伝承には色々な種類がある が、共通する概略は、 朝比奈三郎が土を運ぶことで七ツ森ができたというものである。 土を運ぶのにはたんがらを使ったとされ、これが遂倉山に添って立つたんがら森の名称と結びつけて語られる。

伊達政宗公巻狩りの伝説[編集]

伊達政宗天正19年(1590年)と元和9年(1622年)に、大森(笹倉山)で鹿狩りを行っている 。 笹倉山山頂には、政宗公お狩り場の道標が設置されている。 狩り自体は史実であるが、これにまつわる伝説として、 政宗が狩りの不調に短気を起こして笹倉山の薬師如来を鉄砲で撃ち壊したというものがある。

現在の笹倉山の本尊の御神体には実際に包帯が巻かれているが、 これは政宗が打ち壊したためと伝えられている。

2:12pm の 8 月 20, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

宮城県:七つ森一つ、たがら森

黒川郡大和町(歴史の町、伝説の町)に、七つ森という七つの山があり(山でなく森である。)プラス一つの森「たんがら森」とか「たがら森」とか「宝森」とか呼ばれる山である。7つの山と一つの森で七つ森と総称する。ただ、個々の山の名前は森ではない。同じ所にある「たがら森」なのであるから、入れて八ツ森にすればいいのに!と思う。
七つには、笹、松、撫、大、蜂、鎌、遂、全部に倉がつく。国道からも見えるが、八つも揃うと不思議な景観である。倉=座=神座と言うから、やはり、山をご神体としていた事が分かる。
たがら森は、今は下山道がないから、出来れば遂倉山の途中から入り、元に戻った方が無難である。
小さな石の祠がある。七つ森は薬師如来であるがたがら森は文殊菩薩である。この程度の山は他にもあるだろうが、七つ森と共に、妙に引っ掛かる三角山なのである。
UFOの飛来地で有名な福島飯野町にある、一貫森の由来の伝説が、このたがら森と同じなのはどういうことだろうか!

7:58am の 8 月 2, 2014 にある 獅子 ark 666 のコメント
「東日流」と書いて「つがる」と読むことに、スゴく衝撃を受けました。今の津軽は当て字なのでしょうね。東に流れた日の一族という意味合いが込められているように思います。
5:22am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント
東北日本の古代考八十万年
古代丑寅日本國をヒナカミ(辺境)としてその住民を蝦夷と呼称し、エゾ即ちアイヌであると通 説されてきた。  然るに現代考古学は遺跡などの発掘に依って、それらの出土品に科学のメスが従来の定説を覆し、正確な年代を語らせ当時の民族社会までも語らせている。  とかく、東北の地方史はまつろわぬ化外の蝦夷という潜在意識に依って除かれてきた。だが、東北には古代王國が誕生し、狩猟や漁撈、農耕までも既に民族の衣食住にあり、信仰も掟もあった。  コタン(部落)にはエカシ(長老)が選ばれ長老はオテナ(大王)を選んだ。  罪を犯し者には掟があり罰則もあった。  一族のマキ(紲)は固く、チセ(家)を造るにもユイ(奉仕)に依って速やかに建てられる仕組みが包括されていた。  古来より継続されている傳統には、毎年のサクやマタ(冬と夏)の暦と、その年に起った出来事がユーカラ(語部録)として書き遺され、既にして文字があったことには驚く。  信仰には天然自然みなながらカムイ(神)として、天なる一切をイシカ、地なる一切をホノリ、水の一切をガコと名付けた神をサクイオマンテ(冬の祭り)マタイオマンテ(夏の祭り)はポロコタン(大きな部落)にナイコタン(小部落)から老若男女が集い、雲を突くような六本主柱の堀立三階の高樓をヌササン(祭壇)とした。(現在、青森三内丸山遺跡では発掘されている。)  祀られる神は、宇宙より落下した隕石を天なるイシカカムイ(宇宙一切神)として上階に安置し、中階には木の化石となったものをホノリカムイ(大地一切神)として安置され、地階には貝が化石になったものをガコカムイ(水一切神)として安置され、人の造る偶像などはなくイナウ(木幣)だけが供えられた。  縄文中期の頃、土器が多く造られるようになり女人達がオシラ(祈祷)イタコ(霊媒)ゴミソ(占い)達の言う幻想夢現になる神を姿として各々がチセ(家)に祀った像の全般化したものが土偶である。  古代人達は知識におくれ、四季毎に起こる天災や身のまわりには、死との背併せな生活であり、いつの世にも人の死別 は悲しいもの で、ダミ(埋葬)にもヤントラ(墓)は大人と子供は別葬された。 幼くして死んだ童は、瓶棺に穴を開けて葬る心には、親を求めて冥土より甦えるという古代信仰の習しである。  古代人達は、天然自然みなながら神であり信仰の対象であった。この信仰に依って神格されたのが天と地と水を要原とし、これを崇拝することに依って安心立命を叶う祈りの確立として人々は祭文を称へたのである。  アラハバキ イシカ ホノリ ガコカムイ ただこれだけをくりかえし、悲しみにも悦びにも一心不乱に称へたのである。  津軽に遺る(天地水神語部の傳)と題して語部文字が記す上代史をみてみよう。  凡そ人祖の渡来は、古に遡ること十五万年乃至三十万年の昔なり。  太古に人の住みける地に黄土嵐起こり、鳥獣みな新天地に求めて移り、人祖は山靼よりこの地に追ってたどり、豊かなる山海の幸ある日辺の國に定住せり云々。 (宮城県築館遺跡から出土した石器は六十万年乃至八十万年前のものと新聞に発表され、この科学測定は、語部録より五十万年前の古代に遡ることになる)  語部録は全八十二卷に及ぶので、古田先生がいつまでも健在であることを祈り、これを解いて皆さんに説明出来る日に望みをかけて私は筆を置きます。 (東日流中山史跡保存会・会長)

参考(古田史学会報十四号 部分)

5:16am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

東日流外三郡誌

東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)は、古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされていた、いわゆる和田家文書を代表する文献。ただし、学会では偽作説が確実視されており、単に偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いと言われている。しかし関係者の間では「古文書」という呼び方が定着しているため、本項目もそれに従うことにする。

内容[編集]

東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族文明が栄えていた、という内容である。また、アラハバキを「荒覇吐」としたうえで遮光器土偶の絵を載せ、アラハバキのビジュアルイメージは遮光器土偶である、という印象を広めたのも、本書が「震源」である。

同書によれば、十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地津軽北海道樺太など)に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、満洲中国朝鮮欧州アラビア東南アジアとの貿易で栄え、欧州人向けのカトリック教会があり、中国人インド人・アラビア人欧州人などが多数の異人館を営んでいたとされる。しかし、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)または1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。

 

 

5:06am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

ー 東日流外三郡誌の世界 ー

☆ 目 次 ☆

1、はじめに
2、「東日流誌」の成り立ち
3、綴史密命之事
4、東日流外三郡誌附巻
5、述言
6、総結編二序言
7、十三湊脚渉記
8、北辰懐古
9、孝季の手紙より
10、菅江真澄殿、津軽藩捕らわれの事
11、宇宙創誕のこと
12、長崎で得た彼らの西洋科学知識
13、東日流抄文
14、悲別之事
15、築城極秘之事第二
16、東日流外三郡誌読おきて
17、「東日流誌の成立ち」考察
18、「東日流誌」のアウトライン
19、耶馬台国五幾七道之事
20、東日流内三郡誌大抄 上の巻
21、耶馬台史審抄
22、考察
23、荒吐族
24、東日流誌の古代史像
25、安倍氏
26、仙境臨海之法場録
27、東日流武歴考
28、安倍頼時之遺文
29、安倍次郎貞任遺文
30、考察
31、安東水軍
32、夷虜抄
33、十三風情記
34、安東船廻湊図抄
35、十三水軍記(雲水行情帳より)
36、津軽の呼び名
37、安東水軍の起立
38、安東船之歴歩
39、潮踏記
40、ボッ海鴨緑江之安東城
41、安東船入唐録
42、安東船覚書
43、日高族の伝話
44、日高渡島のこと
45、安東一族騒動之事
46、興国二年の大津浪
47、上方廻状
48、あとがき

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5:00am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント
4:47am の 8 月 2, 2014 にある 古谷 茂 のコメント

アラハバキ神社

由来
 古代先住民(荒吐族・荒脛巾族)の祖神、守護神として、祀ったもので、ある文献によると、古代の東北、関東の地に六百余社数え、平安期のアラハバキ系中心王侯は南部衣川、安倍氏が後裔と言われる前九年の役後、改神或いは合祀の憂目にあい、現在県内に残る荒脛巾社は当社他数社のご鎮座が見られます。


祭祀年
 定かではないが、アラハバキ族の王城の地を西暦前に米山町朝来に、また西暦後多賀城へ、そして古川市宮沢(三〇二年)に移したとある。これを証とすればこの何れかの時代に、この地に一族集団が、安住を求め守護神として祀ったものと推定される。

「アラハバキ族」なる言葉が出てきた時点で、この縁起が『東日流外三郡誌』の影響を大きくうけていること、さらには1970年代以降に作られたことが分かります。
 おそらく、もともとは先にも書いたとおり”みずいぼの神”さまという素朴な神様だったのでしょう。そのような神様は全国いたるところにあります。ところがそれが”アラハバキ”なる名前が付いていたので、このような壮大な縁起が後付けされたと考える方が自然に思えます。
 そのあたり「ある文献によると」の「文献」が何であったのかということが分かるとハッキリしてくるとは思えますが。
 

 

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